前回の稲尾スレから1年。
11/13は稲尾和久さんの命日。
だから、今日、ブラッシュアップして立ててみた。
「鉄腕一代」より
1番・センター
自分の契約金・給料が同期入団の畑、田村より圧倒的に安いと知っても
腐らず前向きな姿勢を崩さない謙虚さ。
畑 (契約金800万円月給15万円)
田村(契約金500万円月給10万円)
稲尾(契約金50万円・月給3万5千円)
「契約金50万円、月給3万5千円ももらって、期待されとる」と
内心、自慢に思っていた。
ところがある日、なんとなく契約金の話になった。
H「オレ、契約金800万で月給15万」
T「オレは500万の10万」
ガーン、ワシの10倍以上もらっとるやんけ……
H・T「で、稲尾、お前はナンボや?」
稲尾「まあ、ぼちぼちや……」(震え声)
扱いの差は大きく、同じルーキーでも畑はキャンプの時から「畑」と名前で
呼んでもらえたが、稲尾は「おい、24番」とか「手動練習機」と呼ばれ、
一度も名前で呼んでもらえなかった。
バッティングピッチャーとして、1年目のキャンプで、
毎日、300-500球も投げていたが、
ピッチングコーチの指導を受けようとブルペンに行っても、
ロクに指導は受けられなかった。
畑たちと一緒に走っても、ビリだった。
https://www.youtube.com/watch?v=K99VKFnrgP8
1:00あたりに注目
3番・ショート
通算300勝を目標として現役続行を希望していたが、
黒い霧事件で窮地に陥った球団の要望により引退をうけいれる男気。
球団の殺し文句。
「今、こんな球団の監督を引き受けてくれる人が、他にいると思いますか?」
4番・サード
圧倒的な酷使の中でも一切恨み言・不平不満を言わず、「感謝している」とぐう聖発言。
後年、病床に伏していた三原は稲尾に「自分の都合で君に4連投を強いて申し訳ない」と詫びたが、
稲尾は「当時は投げられるだけで嬉しかった」と答えている。
プロ入りから8年連続で20勝以上を挙げ、この8年間の平均登板数は66試合、平均の投球回数は345イニングである。
42勝を挙げた1961年には登板78試合(パ・リーグ記録)のうち先発で30試合(完投25試合)、リリーフで48試合に登板している。
当時は中3日で「休養十分」と見なされていたが、この年は中3日以上空けて登板した試合はわずか18試合。
逆に3連投4回を含め連投が26試合ある。
同世代のエースと比較しても稲尾の登板試合数は極端に多い。
米田と土橋は共に63試合が最高で、60試合以上登板したのも共に2シーズンだけ、
梶本は68試合が最高だが60試合以上登板したのはその1シーズンのみ。
これに対して稲尾は60試合以上登板したシーズンが6シーズン、そのうち70試合以上登板したシーズンが4シーズンある。
特に入団初年度の1956年からは4年連続60試合登板を記録し、かつ61→68→72→75と年を経る毎に増えている。
シーズン最多記録の42勝14敗の内訳だけど、これも興味深い。
先発したのは30試合で、24勝5敗、完投は25、防御率1.68。
救援は48試合、18勝9敗、防御率1.72、平均3.08イニング投げている。
もし、ローテーションをきっちり守っての先発だけで良かったのなら……。
5番・レフト
圧倒的に紳士的なマウンドマナー。
相手投手にマウンドを譲るときは、
必ずロージンバッグを一定の場所に置き、
自分と相手の投球で掘れた部分をていねいになしてから
ベンチに戻った。
ちなみに南海のエース杉浦も稲尾を見倣い同じことを始めたのだが、
「ピンチの後には、よくならし忘れていた。でも稲尾さんは一度もそういうことがなかった」と
杉浦本人の弁がある。
余談だが……。
ちなみに金村義明は、完投勝利を収めるたびにガッツポーズしながら、
マウンド上でジャンプしつづけたため、高野連の関係者から厳重注意を受けた。
当時、少年野球をしていたオレは、ハッキリ憶えているが、
監督・コーチから、「みっともない! 金村のマネしちゃ、絶対にだめだぞ!」と
悪い手本として、取り上げられてたw
6番・指名打者
どんな相手にもブラッシュ・ホールを投げないフェアプレー。
榎本は「どんなに打たれても、あの人だけは一回もひげそりボール(ブラッシュボール)を投げてこなかったです」
榎本は稲尾が苦手にしていた数少ない打者。
この榎本だけには、フォークボールを1日5球限定で投げた。
栄えある通算1位は、愛弟子の死球王・ビンボール東尾修165個。
サイドスロー・アンダースローの有名どころの投手は、ことごとくぶつけている。
シュート・シンカーを決め球にしていた山田久志が6位で135個、
7位 足立光宏 130個。
12位小林繁 111個、
24位松沼博久 94個、
33位高橋直樹 87個。
かみそりシュート平松政次が10位で120個。
稲尾と同じく、スライダー・シュートを決め球にしていた精密機械北別府が18位で99個。
ノミの心臓今井雄太郎が15位で102個。
39位は星野仙一と安仁屋仁が同数で82個。
意外と少ないのは、シュートばっかり投げてた西本聖が64個82位。
サイドスローで一世を風靡した杉浦忠は67個71位、
斎藤雅樹は52個で100位圏外。
逆に意外と多いのが桑田真澄。
三浦大介と同数の76個で48位。
余談だがメジャーリーグ、160km/hのノーラン・ライアンは158個。
ライアンは、右打者の内角に投げる球は全てツー・シームを投げていた。
しかも、与四球メジャー記録を持つライアンが、スリークウォーターから……。
7番・ライト
後輩たちへの面倒見の良さ。
愛弟子でもある池永正明の復権に大きく尽力した。
ちなみに伸び悩んでいたジャンボ尾崎にシーズンオフにゴルフに誘ったのは稲尾。
後に尾崎はゴルフにはまってプロゴルファーに転向しようとして球団ともめたが、
稲尾は尾崎のために口添えしてる。
8番・キャッチャー
元チームメイトへ示す人情味。
2005年、仰木彬が亡くなり、プロ生活の大半を過ごした関西地方(場所は神戸市)でお別れ会の話が出た際、
稲尾は「福岡(福岡県)は仰木さんの故郷で親類や知人も多い。
神戸まで足を運べない人の為にも」と福岡・神戸でのお別れ会同時開催を提案した
9番・セカンド
器のでかさと思いやり。
ルーキーがフライを落とし、サヨナラ負けした後。
西鉄のベテランたちは、帰りのバスの中でそのルーキーがつるし上げた。
「お前、よくバスに乗れるな」「ワシやったら、自殺しとるぞ」と。
唯一かばって「気にせんでください。次、打ってくれたら十分ですから」と
慰めたのが、その落球で敗戦投手になった稲尾だった。
この負けのために稲尾の対近鉄連勝記録は途絶えた。
投手・先発
常に「いただきます」、「ごちそうさま」を忘れない礼儀正しさ。
お得意様の阪急戦、ダブルヘッダーで2連投、2勝を挙げた稲尾。
球場を去るとき、相手チームのエース米田に「ごちそうさま」と、
ちゃんとお礼を言ってから帰っていった。
投手・中継ぎ
審判の判定に不服でも紳士的で粋な態度。
きわどいボールを2球つづけて、ボールと判定された稲尾。
ムカついて、ど真ん中にストレートを投げ込んだ。
ところが、またもやボールと判定された。
さすがにおかしいと抗議したら、球審の二出川は
「プロのエースにど真ん中のストライクというものはない!」と一喝。
にやりと笑った稲尾は、その後、外角ギリギリに3球つづけてきめて三振を取った。
ちなみに、コントロールの良さから精密機械とよばれた北別府は審判に
嫌われていた。
というのも、きわどい球が多くて疲れるし、ボールと判定されると、
露骨に不満な表情を浮かべていたから。
あるとき、きわどい球をボールと判定されて、怒った北別府は、
そのあと同じコースに同じ球を3球つづけてフォアボールになってる。
投手・抑え
常に頭脳的・合理的な投球。
シーズン中ほとんど練習しない稲尾に誰かが尋ねた。
「そんなに練習しなくていいの?」
稲尾「俺の場合、試合が練習だから」
登板翌日は、軽いランニングとキャッチボールのみで切り上げ。
シーズン中はゲーム前もふくめて投球練習はほとんどしない。
投げるときには、点差が3点差以上なら、翌日のことを考え省エネ投法。
下位打線・弱小チームには、八分の力で投げていた。
江川卓も同じようなことをしていたのだが、「江川の手抜き」として、
当時、巨人ファンとアンチ巨人から非常に評判が悪かった。
投手コーチ
「スライダーが決め球」とマスコミに意識的に語り、相手にスライダーを意識させてから、
シュートを決め球にする頭脳的投球。
https://www.youtube.com/watch?v=1xCYXg4jxQs
ちなみに8:20あたりから、稲尾さんの超絶投球テクニックが紹介されている。
ちなみに日本人の敵・江川卓もある年、同じことをしたのだが、
「江川はずるがしこい」とか「セコイ真似すんな」「意地汚い」と
江本孟紀・板東英二の両氏から、著作の中でぼろくそに叩かれてるw
(新しく覚えたスライダー・シュートをマスクメロン・コシヒカリと名づける)
ヘッド・コーチ
たまに漏れ出すお茶目な本音。
宿舎でマージャンが行われていた時のこと。
最初は見物していた稲尾は、日ごろの疲れのせいが転寝を始めた。
ところが、突然、中西に頭をはたかれて起こされた。
豊田をはじめ、みな笑いをかみ殺している。
稲尾は、寝言で言い放っていたのだ。
「サードに打たすな!!!」と。
監督
ファンのためならば、球団幹部にもかみつく男気。
平和台で行われた日本シリーズ。
当時の別府市長を団長とする後援会が、別府からバスで来ることになった。
ところが連絡ミスなのか手違いで切符が用意されてない。
慌てて球団幹部に掛け合ったが、既に完売でどうにもならんと一言。
なんとかせねばと焦った稲尾が言い放った熱い一言が、これ。
「切符くれんなら、今日の試合、もう投げん!」
それに折れた球団は、急遽、バックネット裏の通路にパイプいすをならべ
稲尾後援会の座席を確保した。
ちなみに……これで味をしめた西鉄は、日本シリーズに限り、
以降この特設シートで増収を果たした。
オーナー
後年、インタビューで300勝について聞かれて一言。
「私があげた勝ち星が276。背番号24をたして300ということで、勘弁してもらいましょう」